法華経転読(8-1)

2016/3/21 | 投稿者: ghost

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しばしば言っていることではあるが、思うに、一般的な日本人はいわゆるお経を「意味はわからないけれども何だか有難い呪文」というように認識している、と言って間違いないと思う。

たとえば、第3話で触れた妙法蓮華経方便品第二の十如是は、天台大師によって略法華経の一つに挙げられたこともあって、後世の信徒に音読されることが多い一節であるが、これは片仮名で書けば以下のように発声される。

ショーイーショーホー、ニョーゼーソー、ニョーゼーショー、ニョーゼータイ、ニョーゼーリキ、ニョーゼーサー、ニョーゼーイン、ニョーゼーエン、ニョーゼーカー、ニョーゼーホー、ニョーゼーホンマックキョートー……

いろいろな理屈(本筋ではないので割愛)があって、音読に際してはこれを三回繰り返して読むのが一般的だが、これを聴いて呪文だと思うな、という方が無理がある。

余談だが、今日流通する音読用仏典テキストの多くが、上の音を振り仮名するのに“平仮名”を用いるのは何故なのか。原則としては、音読みの表記には片仮名ではないのか。仏教プロパーのこのような無自覚な行為もまた、経文テキストの呪文化の一因のように思えてならない。

さて、ここまで本連載で見てきた法華経の各章の内容から、いわゆるお経が意味不明の呪文ではなく、その主張に納得するかどうかはともかくとして、さほど難解なことを言っているワケではなく、むしろ一部稚拙とすら思える理屈を捏ね繰り回しているに過ぎない平易な文章であることは、ご理解いただけたのではないか、と思う。

が、法華経の全章がそうなのか、と問うとこれまた違うのであって、第8話となる今回は、全27章中でも際立って異色な第二十一章“ダーラニー”(妙法蓮華経陀羅尼品第二十六)を取り上げる。

何が異色かというと、そもそも章題が異色である。これは、本連載底訳本の著者である中村師が章題をそのようにしておられるのでそれに倣ったものであるが、章中の陀羅尼(だらに)についての訳註において、師は以下のように書いておられる。

原典の「ダーラニー」の呪文は、日本語音写すべきであると思われるが、K本、G1本、G2本、写本集成、また、チベット訳の五種類の版本を比較するとき、異なる語が見られ、どの語を音写すべきか決めがたいものがある。ここは羅什訳の音写語に従った。


これだけ抜き書くと読者諸兄には意味不明かと思うので不遜ながら語意を補うが、まずK本〜というのは中村師が邦訳に際して参照した諸写本のことを言っている。陀羅尼……この漢字表記がそもそもダーラニーの音写なのであるが……は呪文、つまり意味ではなくその音に価値があるとされるものであるから、邦訳に際しては本来的にはこれを片仮名なり平仮名で音写すべきであるが、諸写本間でこれが一致しないので、最も人口に膾炙した鳩摩羅什訳妙法蓮華経のそれを採用するのであしからず、というのが師からのお断りである。

つまり、本章は本当に「意味はわからないけれども何だか有難い呪文」から成る章であり、ゆえに、その章題も原典の音のまま“ダーラニー”と表記された、ということなのだろう、と思う。

また、本章は前掲書中の章番(第二十一章)と妙法蓮華経中の登場順(第二十六)の乖離が大きい章でもあるのだが、これも師の訳註によれば、本章の位置は諸写本間で第二十一から第二十六までの間で揺れ動いており、前掲書が本章を二十一番目に配しているのは、単に、そうである写本が多数派だったから、らしい。逆に言えば、本章は法華経第三期の章の中でも、どこに配しても構わないほどに突き抜けて独立性の高い章だ、ということを含意している。

法華経全体に目を向けると、ダーラニーの語が初出するのは、序章と全章成立後に加わったと見られる第十一章後半(妙法蓮華経提婆達多品第十二)を除けば、既に見た第十二章“よく耐え忍ぶ”からになる。つまり、法華経第一期の時点では、ダーラニーの語は一切登場しない、ということになる。ここから言えるのは、少なくともダーラニーは(それが何であるにせよ)法華経の中心的な理念とは特に関係がない、ということだ。

第十ニ章転読に当たっては、特に触れる必要もなかったのでこの語を無視していたのだが、これは、同章も含めて本章以外にこの語が現れる場合、共通して何の脈絡もなく「そのとき〜はダーラニーを得た」と挿句されるのみで、それ以上の広がりが皆無だからであり、しかも各章に一回か二回である。と言うことは、法華経第二期の筆者は、途中から粉飾語句的にダーラニーに触れるようにはなったが、そこにはさほど積極的な意味はなかった、ということになるだろう。

法華経第三期に入ると、本章までの三章には一切ダーラニーの語は現れない。対して、本章以降は、第二十ニ〜二十三章に第二期同様に一回ずつ挿句された後は、第二十六章で突如頻出する。本章の全章中の位置が写本間で不安定なことには既に触れたが、以上のことを鑑みるに、おそらくは法華経第三期に入って「やっぱりダーラニーに触れる章があった方がいいんじゃない?」という話になって本章が作られ、以外にウケが良かったので続いて着手された第二十六章で多用されたものの、そこで法華経の拡充が終わってしまった、といったところが真相なのではないか、と思う。

ここで改めて本章の位置についての中村師の註を参照すると、写本の成立時期が新しくなるほどに本章が前に出てくる傾向があるので、意外に羅什の妙法蓮華経における位置がオリジナルに近いのかも知れない、などと思ったりもするのであるが、まぁ、楽しげに推理を進めておいて言うのもアレだが、実のところどうでもいい話だ。言わんとするところは、ダーラニーは、少なくとも法華経にとってはあってもなくても良いものだ、ということである。

ところで、ダーラニーとはそもそも何であろうか。陀羅尼、は音写である。“尼”の字が見えるが、女性とは何の関係もない。漢意訳としては、総持(そうじ)、能持(のうじ)、能遮(のうしゃ)などが知られる。対応する和語はないが、原義は「しっかりと覚えて忘れない」ほどの意味らしい。総持、能持はこれを受けての訳だろう(後述する『正法華経』では本章を“総持品”第二十と題している)。また、特定のフレーズを繰り返し暗唱することで雑念を払うのがそもそもの用法であったらしく、能遮は雑念を“遮る”の意から訳されたもののようである。

輪廻転生観など、現代の我々が“仏教由来のもの”と考えてしまいがちな多くの概念同様、これも元来は仏教の産物ではなく、<仏教>者が“外道”と呼んで自分たちと区別した各種の祭儀……婆羅門(ばらもん)と総称することが多いが、これは祭儀に従事したカーストの呼称であって、そういう名前の宗教があったワケではない……に含まれていたものを、仏教が取り入れたものらしい。

後に、ここに神秘的な意味合いが付加されるようになり、マントラ……漢訳経典はこれを真言(しんごん)と称する……が派生する。このマントラこそが仏の悟りの実体であるとするのが、インドにおいては7〜8世紀頃に体系化が進む密教となる。これが中国大陸を経て、空海によって我が国に持ち込まれ、我々の知る真言宗へと繋がっていく。そのような観点において、大乗経典に取り入れられた、後の密教に繋がるダーラニー等の呪術的な所作を、初期密教と呼ぶことがある。

つまるところ、本章は、一般的には密教の対概念となる顕教(密教・顕教についてはこちらの拙稿を参照されたい)を代表する経典とされることが多い法華経に紛れ込んだ初期密教、ということになる。それはいったいどのようなものであったか、味わってみようというのが第8話のテーマとなる。

*     *     *

以下、余談なのであるが。

ボクは高校生くらいの時分から、漢訳経典の意味を意識して読む癖がついたのだが、人に言われるまで気付かなかったのだが、この癖がボクにとある変化をもたらしたのである……というと、何か神秘的な話が始まるかのようであるが、何のことはない。変化したのはお経の音読法である。

たとえば、妙法蓮華経中で最も人口に膾炙しているのは如来寿量品第十六後半の偈、通称“自我偈”であり、かく言うボクも淀みなく暗唱することが出来るが、

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫……


冒頭八詩句は上引用の通りだが、これを音読する際……葬式の読経を想像してもらえればいい……一般的には以下のように発声される。

ジーガートクブッライ、ショーキョーショーコッシュ、ムーリョーヒャクセンマン、オクサイアーソーギー、ジョーセッポーキョーケー、ムースーオクシュージョー、リョーニューオーブツドー、ニーライムーリョーコー……

おそらく、ボクもこれを覚えたての頃はこういう感じに発声していたのだ、と思うのだが、いつ頃からか字義に意識が引っ張られて詠み方が以下のような感じになってしまったのである。

ジガ、トクブッライ、ショキョウ、ショコウスウ、ムリョウヒャクセンマン、オクサイ、アソウギ、ジョウ、セッポウ、キョウケ、ムスウオク、シュジョウ、リョウニュウ、オブツドウ、ニライ、ムリョウコウ……

おわかりいただけるだろうか?

別に、上段に示した読み方が正しくない、といったような意図で言っているワケではない。自分でやってみればわかると思うが、発声のしやすさで言えば上段のそれの方が圧倒的に楽なのである。が、この読み方をすると、意味が頭に入って来なくなって本当に呪文になってしまうのである、少なくともボクにとっては。

で、意識的にそうしたワケでもないのだが、いつの間にか下段に示したような……要するに、調子を整えるための長音化を止め、意味の切れ目で一息止めるようになった、ということなのだが……読み方が癖になったのであるが、コレが存外評判が悪く、読経に変な癖がある、と指摘されるのはマシな方で、人によっては面と向かって罵倒されることもあって、それで初めていつの間にか自分の読経が変化していたことに気づいたのだった。

まぁ、あくまでもボクの個人的な体験に基づく話なのではあるが、ここからわかるのは、宗教コミュニティにおいても、お経の意味を意識して読む、という読み方は、必ずしもメジャーではなく、むしろ意味不明な呪文として読むのが普通であって、そうでない人間に敵意を剥き出しにする人すらいる、という事実である。

とまれ、そういう手合はもう漢訳経典なんかも詠むのは止めて、次稿以降に紹介する意味不明なダーラニーを有難がってりゃいいのに、ということが言いたかった。ま、誰にも共感してもらえないとは思うけどね、こんな話。いや、カトリックの人はミサ等の言葉使いでそういう矛盾、というか、やるせなさを感じてる人がいたりするかなぁ?

つづく>>



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