読書メモ:アロウズ・オブ・タイム

2017/9/29 | 投稿者: ghost

<直交>宇宙シリーズの完結編『アロウズ・オブ・タイム』(グレッグイーガン著/山岸真,中村融訳/早川書店,2017)読了。本書は2月末に出ていたのだが、読み出すとゲーム開発の手が止まるのがわかっていたので、ドラコニックスロウンが完成したときの自分へのご褒美として、買うだけ買って読まずに温存していた。まぁ、読み出したら案の定止まらなくなってアッという間に読み終わってしまったのだけれども。

クリックすると元のサイズで表示します<直交>宇宙シリーズは、我々の住むこの宇宙に比してその基盤となる法則のうち、数式中のある符号が一つだけ逆転している宇宙を舞台にした物語。この世界にもニュートンやアインシュタインに相当する発見をする人物(もちろん人間ではない)が登場するが、その符号の違いから我々の宇宙とは幾分異なる出来事が導かれる。いささかご都合主義的な展開を感じる部分がないでもないが、このあたりの論理設定の徹底度は流石グレッグ=イーガンなのである。

が。

以下、あくまでも私見であるが、本書の主題は、ミもフタもない話ではあるが、この奇怪な物理学そのものではない。本書は、限りある命から限りある命への継承の物語だ。

イーガンと言えば、私家版宇宙を作ってしまう『順列都市』や百兆の異次元宇宙を渡る『ディアスポラ』など、質的にも量的にも事実上の無限に拡張された知性を扱った物語がボクなどはまず思い浮かんでしまうのだが、これらの物語とて、決して永遠の生命そのものが主題ではなく、その枠組みを通して読者を含むすべての人間・知性の可能性を描いた物語であった、とボクは理解しているのだが、思うに、イーガンは2000年代以降、その副作用の方が鼻に付き出したのではないだろうか。

有り体に言ってしまえば、永遠の生命に対する読者の共感というのは、容易に安易な現実逃避の夢想になり得るのであって、おそらくはこのあたりの問題意識が、イーガンにしてはやたらと地に足のついたヘンテコ小説『ゼンデギ』(邦訳,2015)を生む下地になったのだろう、と思っている。ゼンデギもまた、永遠の生命、それも順列都市やディアスポラのそれに比べて、いかにも現実の我々からさも手が届きそうな形で描き出しつつ、その実は限りある命から限りある命への継承を主題に据えた物語なのであり、おそらく彼をそこへ向かわせたのは彼自身が老けてきたからなのだろうが、きっとそこにちょっと照れのようなものがあって、それがかの尋常ならざる変化球を生み出したのだ、と想像することは難しくない。

結果的に彼は、同作でいささか軽率な(彼を含む白人マジョリティから見た)異文化受容をやらかしてしまい、主題がボヤけるどころか振りまくべきでない含意を振りまいてしまった、とボクなどは思っているのだが、おそらくこれに対する反省が<直交>宇宙シリーズを生み出したのだと思う。

つまりはこういうことだ。


それが現実的なものであれ非現実的なものであれ、読者に理解される物語を紡ぐには、著者と読者の間で共有されている、あるいは共有され得る可能性のある前提としての言語・文化を媒介とするしかないのは自明であるが、当然のことながらそこには、媒介として選択した言語・文化が物語に対して制約を与える、というアンビバレントな力学が存在する。

ボクが順列都市を最も高く評価しているのは、このあたりのバランスがとてもよかったから、というのもあるのだが、同作がイーガン自身が暮らすオーストラリアの都市を主な舞台に進行するのは偶然ではあるまい。いかにイーガンとて、自分に馴染みのない世界は書き辛いのだ。対してディアスポラは西暦3000年以降を舞台とした基本的に地に足のついていない物語、その分だけ読者を現実逃避させる副作用も大きい。

この中間点に、大半の読者にとって馴染みがなく、かつ、少なくとも現代の我々にとって地に足のついた舞台として、ゼンデギではイランが舞台として選ばれ、ペルシア文化、イスラム文化が背景に選択されたのだろう、とは思うのだが、イーガンはアレを書くためにわざわざイランを旅したらしいが、妙なディテールにこだわっているワリには、やはり西洋文明の色眼鏡で無理繰りに合理化された、文化相対主義的な腐臭漂う代物になってしまっていたのは否めない。

では、どうすればいいか。

話は簡単で、すべての読者と共通の基盤を有しつつ、かつ、誰の手垢もついていない世界を丸ごと作ってしまえばいいのであって、かくして生まれたのが<直交>宇宙世界であるのは、まぁ、ほぼ疑いあるまい。そして、この場合における共通基盤は数学と、そこから演繹される物理学である。ここまではわかる、わかるのだ。

問題は、だからといってあそこまでやるか、という話なのであって、『白熱光』も大概だったが、<直交>宇宙シリーズの徹底度はちょっと狂気の沙汰だ。しかもその狂気の沙汰をやらかしておいてオチがアレか!

とまぁ、そういうことを思った、というのを備忘しておきたい。

我田引水ではあるが、イーガンが<直交>宇宙シリーズを通して言っていることは、使命を自覚し受け継いでいくそれぞれの限りある命が、その瞬々間々にすべてを背負い込んで銘々にできる限りのことに取り組む姿は美しい、ということなのであって、奇しくもこれはボクが読み解いた法華経の主張に一致する。

狂ってないぞ、狂ってなんかないんだったら。



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