フランスで“村の教会”というとき、文字通り「村の中に教会がある」場合と、「教会の周りに(オマケとして)村がある」場合がある。サン=タマン=ド=コリーは明らかに後者。

<美しい村、サン=タマン=ド=コリー>
伝承を信じるならば、そのまま村の名前の由来にもなっている“コリーのアマンド”なる人物が、6世紀に当地に修道院を興したのが村の開基。と言うか、その時点では修道院しかなくて、村は後述する理由から人が集まるようになって修道院を取り囲むように自然発生したらしい。現存の教会は12世紀から15世紀にかけて造営されたものだが、村の規模(上掲写真が村のほぼ全景である)に対してあまりに大きいので、見るからに村がオマケっぽい。

<サン=タマン=ド=コリー修道院付教会>
城塞然とした重厚な造作の教会。周囲を城壁に囲まれていて、かつてはそこに修道院本体もあったのだろうと思うのだが、今はそこが村の学校になっている。

<城塞のような石垣と防壁を備える>

<身廊から内陣を望む>
よくもまぁこんな何もない辺鄙な場所に、と嘆息するほど、呆れて高い天井に圧倒される。よく見ると、手前の身廊天井は紛うことなきロマネスク建築だが、奥手内陣上部は交差ヴォールトになっていて、ゴシック建築であることがわかる。つながりがあまりに自然なので、作っているうちに建築技法のトレンドが変わってしまってこうなったのか、19世紀におこなわれたらしい大規模な補修作業をやった人たちが巧みだったのか、俄かに断じ難い。
さて、当地の修道士たちがこれほどの教会を建造できるほどの力を蓄えていたがゆえに“ソレ”が成し得たのか、逆に“ソレ”があったればこそ修道士たちは力を蓄えることがかなったのかはわからないのだが。

<ソレ=hopital=病院>
当地には修道士たちが運営する病院があったのだという。上掲写真の建物は17世紀に建てられたものだが、病院の歴史自体は14世紀末まで遡ることが出来るそうだ。これが冒頭に書いた、修道院を囲む村が生まれた直接の理由であろう。
教会で病院、と言うと、前々回の旅で紹介した
ボーヌのオテル=デューを思い出すのだが…

<病院遺構に掲げられていた解説パネル>
ボーヌの施療院が、治療よりもむしろ“心安らかに死ぬこと”を目的としていたのに対し、このパネルを信じる限りは、当地の病院は患者を積極的に治癒させることを目的としていたようで、かつ「巡礼者、患者、貧しい者を歓迎した」とあるので、これも言葉通りに信じるとすれば、修道院経営の手段としてではなく、慈善福祉を目的としたものであったようだ。
当地にはボーヌのニコラ=ロランに当たるような強力な庇護者があったようでもないし、事実、病院開設後だけでも英仏百年戦争やフランス革命に際してかなりの被害を受けたこともあったらしいのだが、それでも近代まで病院が存続したのは、歴代の修道士たちに受け継がれ続けた宗教的情熱というか使命感のようなものがあったということなのだろうか。だとすると、これは結構凄い話だな、と思ってみたりもするのだが、これも真相はよくわからない。
以下、サン=タマン=ド=コリーの情景を数葉。