なぜカトリックはセックス嫌いなのかという疑問の思索メモ(後編)

2012/3/7 | 投稿者: ghost

昨日の続き。以下は前掲書『中世の結婚』第九章に依拠するが、一部ボクの勝手な考えが混じっている。なんせ思索メモだから。

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<モアサックの修道院彫刻/本文とは全然関係なし…でもないか>

中世ヨーロッパで問題となった種々の異端者については、異端ゆえに彼ら自身の手になる資料の多くが破却されていることから、厳密には彼らが本当のところ何を考えていたのかは断定出来ない。が、自称正統側=カトリックが残した言及資料から、種々の異端に概ね共通する傾向は読み取ることが出来る。その最たるものは、彼らが原理主義的であり厳格主義的であり復古主義的であった、という点だ。

上掲書で典拠付で紹介されているところによると、ある異端者は、教会が結婚に介入すること自体に異を唱え、そのゆえに異端と断罪されたという。彼らに言わせれば、聖なる教会が忌まわしいセックスに関わる結婚を扱うということ、それ自体があってはならないことだ、と。そう主張する彼ら自身は、同じ異端者同士であっても、男女が同室することすら忌避していたらしい。

さて、ここでひとつの捩れが生じるのであるが、異端者がただ一人でそれを主張しているのであれば、それは単に変なヤツがいる、というだけの話である。これが事件として歴史に残るのは、少なからぬ貴族や庶民がこの異端者を支持してひとつの運動を形成し、カトリックの権威を脅かす事態を生じさせたからである。では、その支持者たちがこの異端者に全面的に賛同したか、つまり、支持者たちも男女席を同じうせず!をスローガンにしていたかというと、どうもそうではなくて、彼らは単にカトリック教会が自分たちの結婚だのセックスだのに口を出すのが嫌で、その利害の一致だけで異端者側についた疑いが濃厚なのである。

一方の異端者本人も、自分自身の生き方はその信念に殉じ、また、自らもかくありたいと願うものは受け入れたようなのだが、その信念を共有できない人々、つまり、普通に結婚もセックスもしたいよ、という人々に対して「結婚するな!セックスするな!」と説いて回ることはしなかったようなのだ。正確を期すならば、そのように説いて回ること自体も忌避した、と言うべきか。

だから、カタリ派などはその最も極端な例になるが、男女の交わりも肉食も資産も安定した住居も、そのすべてを否定し、実際に放棄して見せたいわゆる完徳者と、完徳者を尊崇はするけれども、自身の言動はそれに倣おうとは決してせず、むしろカトリック視点からみれば“肉欲に溺れるがまま”に見える支持者たち、という異質な二者が“異端”という1つの言葉でもって呼ばれていたことになるワケだ。


さて、以上のことから何が見えてくるか。

第一には、一見して対立して見えるカトリック聖職者と異端者だか、セックスに対してネガティブだ、という点では根が同じだ、ということである。異端者をして原理主義的とする由縁であるが、ネガティブでありつつも現実社会との妥協点を設けざるを得ないカトリックと、教条的に(彼らが理解し信じるところの)聖書に従おうとする異端者、という違いがあるだけで、実は同じ方向を向いている。

そして、面白いことに、これはずっと後の時代、魔女狩りの嵐が吹き荒れる近代に至るまでひとつの“型”になるのだが、カトリックは決まって異端を非難する際に「奴等は貞潔を口にしながら、秘密の夜会を開いて乱交パーティーをやっている!」と断罪するのである。今のところ、一部の本当の意味でカルト化した特殊例を除き、そのような非難に値する集団の実在を示す証拠はみつかっていないし、それ以上に多くの文献が、異端者たちの徹底した禁欲主義傾向をカトリック聖職者自身が熟知していたことを示しているのに、である。

第二には、上記の対立を傍目に、封建貴族や一般庶民は、彼ら宗教インテリの示す性倫理自体に関心も共感もない、ということだ。口煩いカトリックではあるが、面従腹背して済む分には従う。一方で、それが度を越して煩わしくなれば、カトリックを非難する異端者の支持に廻ることも辞さない。

以下はボクの勝手な想像ではあるが、聖遺物崇敬の歴史も合わせて鑑みるに、前近代の俗世の人々は、基本的に現世に対しては諦観していて、つまり、努力して良くしようとか、より良く生きよう、とかいう発想は基本的になくて、第一には直近のライフスタイルの維持があって、加えて、来世へとつながる最後の審判に備えるには、誰の執り成しに期待するのがよりベターか、という、この極端な判断基準だけでもってカトリック正統と異端的潮流の間を揺れ動いていたかのように思える。

この二点を合わせみると…無論、これは中世までの話で、聖職者の結婚を認めたプロテスタント以降を含めると少し話が変わってこないこともないとは思うが、現代のプロテスタント主流も人類全体から見ればアンチセックスな禁欲主義者であることを考えれば、大枠はぶれることはないだろう…少なくとも、一般庶民的な観点からはカトリックのセックス嫌いには合理性がなかった。他の多くの点では大衆迎合的な面も垣間見せるカトリックが、何故かこの点は妥協しないのである。

むしろ、組織防衛的な観点から見れば、大衆に迎合してそういう小煩いことを言わない方が良かった、というか、そのように方針転換していれば回避できた歴史上の危機が多くあり、かつ、そのチャンスもしばしばあったのに、驚くべきことに、つい最近も現法王の性に関する発言が物議を醸したことがあったように、現代に至るまで、カトリックもプロテスタントも、根っこの部分でセックス嫌いを貫いている。ここに大いなる違和感を覚えずにはいられない。

いや、それはイエスや聖書が言ってるからじゃないの?というか、それ以外に理由は考えられない、とせざるを得ないのだが、どうもこれが怪しい。結論から言えば、聖書の記述をすべて正しいとして受容しても、セックス嫌いにはなれない。逆に、何らかの理由でセックスを否定したくて仕方がない状態の人が聖書を読めば、自身の衝動を正当化する記述をたくさん発見することが出来る。これはある意味で、ノストラダムスの詩が予言に見えるのは、それが予言であって欲しい人が読むからだ、という構造に通じている。

つまり、卵が先が鶏か、で言えば、聖書、すなわちキリスト教ドグマが直接的にセックス嫌いを生んだのではなく、セックス嫌いが自身を肯定し権威付けるために聖書を読んだ、というのが、現時点でのボクの勝手な見解なのである。これが、狭くはカトリックの、広くはキリスト教全体の組織原理になってしまったので、自家中毒が働いて結果的に聖書がセックス嫌いを生み続けているかのように見える状態となり、それが現代まで続いているのではないか…といったあたりまで思索して、でも流石に市井の一酔狂人がその立証を試みるのは身に重いので、とりあえず読みやすい俗書で同じような考えを述べているものがないか探している、のが現時点の推移。誰か、そういう本をご存知の方がおられたら教えてぷりーず。

直感的には、キーワードは“リア充、爆発しろ”なのだが、いくらなんでもコレでは乱暴に過ぎる。が、これを展開するに足る知に欠けている。あと、キリスト教が最も極端でいじりやすいのでこうして俎上に乗せているが、多分これ、キリスト教に限った話ではないというか、人間ってそういうもんだよね、的な話のようにも思うのだが、そこまでいくと、もうどうでも良くなってしまう気もするので、もうちょっとゴニョゴニョ考える。

まったくまとまりに欠けるが、まぁ、そこは自分用思索メモ。真に受けないように。



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