続・なぜカトリックはセックス嫌い(以下略

2012/3/28 | 投稿者: ghost

飽きもせず、無駄な思索に耽っている。

クリックすると元のサイズで表示します後述する理由から、キリスト教プロパーの書いたものは多分参考にならないだろう、という気がしていたので、ちょっと遠回りして『女神−聖と性の人類学』(田中雅一編/1998年,平凡社)を手に取ってみたら、いろいろと収穫があったので備忘しておこうと思う。本書の第7章「聖とセクシャリティの拮抗するキリスト教文化」というのが、ドンぴしゃりではないにせよ、目下のボクの関心に合致したのであった。

収穫…というか、厳密には、多分そうだろうと思っていたことが追認された、という感じになるが、キリスト教の聖とセクシャリティの拮抗は、エバとマリアをめぐる神学的思索の歴史において、あたかもシーソーゲームのように現れてくるという書き出しで始まる本稿では、しばらくエバ(一般には“イヴ”の表記の方が馴染みがあると思うが、ここでは本書に倣う)とマリアとは何ぞや、というおさらいが進むのだが、その末尾は以下のように締めくくられる。

マリアの神格化とエバの悪魔化という神学のメカニズムによるこのシーソーゲームには、「悪魔的なセクシュアリティ」という重量の振り分けが決定的な役割を担っている。しかし、エバとマリアを分断するセクシャリティについては、教会神学の典拠になっている旧約聖書にも新約聖書にも、実はほとんど語られていないという事実が問題なのである。(p.230)

先に「キリスト教ドグマが直接的にセックス嫌いを生んだのではなく」と書いたのは、自身で旧新約聖書を通読した感想に過ぎなかったのだが、少なくともボクだけがそう思っているのではない、ということがわかったのが1つ目の収穫であった。論者の言う「シーソーゲーム」は、まさにボクの「卵が先が鶏か」に対応している。いや、それは論者に対して失礼か。まぁ、いいや。

2つ目の収穫も似たような感じで、こちらはそのものズバリではないのだが、やはり漠然とこうではないかな、と考えていたことを追認するものだった。


前エントリに「直感的には、キーワードは“リア充、爆発しろ”」と書いたのは、もう少し展開するとこういうこと。

中世の表現を援用するのは不適切だとは思いつつ、最初期のキリスト教コミュニティは、支配者たる“戦う人”と被支配者たる“耕す人”の、どちらにも属することを拒んだ人たちによって形成された、と言えると思う。要するに、人から奪いたくはないが、自ら汗して働くのも嫌だ、みたいな人たち。現代もいるけど、そういう人たち。で、おそらく、キリスト教聖職者が独身を貫くことになったのは、独身を貫こうとしたから、ではなく、そもそも結婚してもらえなかったからなんじゃないか、とか思う。戦いもしないし耕しもしない人、って、まず婚活対象としてありえないしー、みたいな。

で、そういう人たちが、来るべき“神の御国”に相応しいのは我々だ、と主張しようとしたら、戦う人や耕す人に対して価値を逆転させるしかない。結婚?何それ美味しいの?女なんて悪魔だよ!罪に塗れて地獄へ堕ちよ!すなわち“リア充、爆発しろ”ということ。

だとすると、これは本稿の論者の線に乗せると、エバとマリアを対比してセックスを嫌悪し処女性を過剰に持ち上げる傾向は、初代教会時代に端を発し、いわゆる教父時代に初期教会時代を振り返る形で体系化・権威化されたに違いない、とか勝手に思っていたんだけれども、

キリスト教神学のなかに、ネガティブなエバ像を決定的に刻印したのは、アウグスティヌス(三五四−四三〇年)である。(p.239)

と来て、あー、やっぱ犯人はオマエかよー、と膝を打ったワケ。あぁ、いやいや。彼自身も、既に初代教会以来300年の伝統を無視できない立場だったはずだから、真犯人扱いは酷だとは思うけれども、数ある教父の中でも特に後世における参照数が桁違いに高い人物だけに、謀議こそ認められないものの共同正犯の責は免れないんじゃないか、と。

本当に換骨奪胎してメモしているので、つまんない話だけれども、本質はおそらくこれだけ。もちろん、だからキリスト教がどーこー、と言いたいワケではなくて、ポイントは現代にも“リア充、爆発しろ”と、もちろんほとんどの人はネタで言ってるんだろうけども、一部には素でマジになっている人たちもいるワケで、ここらへんのシンクロがボクの興味の中心にある。

本稿の後半、そして続く第8章では、その反動として聖化されるマリアについて論じられるのだが、このへんも(もちろん、論者自身はそんなつもりはないとは思うのだが)萌え、だとか、処女厨、だとかいったキーワードへの符合を感じずにはいられないのである。

それはそうとして、本書から得た3つ目の収穫、というか、これも薄々そうかな、と思っていたことではあり、冒頭に「後述する理由から、キリスト教プロパーの書いたものは多分参考にならないだろう」と書いたことにつながる、この手の話を考える大きな障害の存在に気付かされたのだが、これは長くなったので明日へ譲る



2012/4/1  10:52

投稿者:ghost

それが良いものであれ悪いものであれ(何を以って良し悪しとするかはさておき)白黒がハッキリしたものに、人は乗っかることで安易な安心を得がちだ、というのはおっしゃる通りだと思います。

その上で、ボクが言わんとするのは、なぜ中庸はそれが提供できないのか、それは中庸というものの本質的な宿命なのか、あるいは、中庸を奉じる人たちの怠慢に過ぎないのか、と言ったところです。

大雑把な言い様ですが、たとえば人種差別に関して言えば、そのアンチテーゼとなる平等主義に、常に一定の胡散臭さがつきまとうのは偶然なのだろうか、とか。貴兄の立場に訳すならば、教条的懐古鉄道趣味者に対するアンチテーゼが、概ね、それ自身の魅力ではなく、懐古鉄道趣味者に対する非難というネガティブな形を採らざるを得ないのはなぜか、と言ったような。

本題に戻すと、実はいわゆる教父時代にも、度を越した性への拒絶やそれと併行して進められた聖母マリアの神格化を批判した人たちは少なからずいて、文献的にも残っているんですが、現代の感覚からして真っ当に見えるそういった主張は主流として生き残ることが出来なかったワケで。では、彼らに何が足りなかったのか、欠けていたのか、歴史にifはないにしても、なんとか後世の悲劇を回避する手立てはなかったものか、ということに対しては、いささか牽強付会かとは思いますが、貴兄も思いを巡らす価値があるのではないか、と。

2012/3/30  22:56

投稿者:沖ノ鳥島

>この不愉快な価値観に対するアンチテーゼが、なぜ同じくらいの規模で育まれないか

あくまでボクの想像ですが、いわゆる中庸な人や付和雷同な人たちも“リア充、爆発しろ!”と似たような価値観を心の拠り所にしている節があるためではないかと思います。

ボクは世界史や社会学に疎いのでアレゲなのですが、かなり長い間(そして一部地域では今でも)身分制やら人種差別というのが続いていること、現代日本においてもマスコミがオタク蔑視の報道をするなど時代や場所により姿形は変われど、どうもヒトは他人を見下して「俺はアイツよりかは大丈夫」と安心しようとする習性があるように思います。(勿論、人が皆そうだとは言いませんが・・・

上手く言葉にまとめられないのですが、“リア充、爆発しろ!”という価値観のアンチ側になってしまうと“オタク、気持ち悪い!”と言って「オタクじゃない俺は気持ち悪くない」と安心するという行為ができなくなってしまう。
この辺が不愉快な価値観に対するアンチテーゼが今ひとつ盛り上がらない理由なのかなと考えています。

まぁボク自身がオタク側の人間ですし、どこまで正確に世の中を観察できているかわからないのですが(_ _;

2012/3/29  21:06

投稿者:ghost

面白い類比を示してくださったので、本稿の延長線上で考えていることを少し書きます。

ボクの真の関心は、初代教会や教父たちが“リア充、爆発しろ!”に陥ったこと(が仮に真だとして、の話ですが)に対する批判、ではなくて、この不愉快な価値観に対するアンチテーゼが、なぜ同じくらいの規模で育まれないか、です。

貴兄の話に合わせるならば、一定の人が教条主義的な懐古趣味に陥るのはもう仕方のないことだ、と割り切った上で、なぜ、それに対するアンチテーゼが健全に育まれず、懐古趣味に対する批判だけが形成されてしまうのか、といったところでしょうか。

良かれ悪かれ、極端な価値観というものは、それだけで強い伝播力を持つものです。中庸な価値観が、同じような伝播力を育むことが出来れば、大部分を占める付和雷同な人たちが適度に分散して拮抗状態を作れるはずなのに、なかなかそうならない。これは、極端な価値観をもつ人たちだけの責だと言えるのか。

思うに、問われているのは、傍目にも明らかな極端な人たちのスタンスではなく、中庸な人側のスタンスなのではないか、と。

2012/3/29  0:10

投稿者:沖ノ鳥島

こんばんは、沖ノ鳥島です。

鉄道趣味での例えで恐縮ですが、一部の鉄道ファンで言われている珍車や旧型車を持ち上げ、新型車を嫌う傾向と似たようなものを感じました。
ここで言う一部の鉄道ファンというのは「今の電車には個性がないし味もないからだ」といって自分で行動しない(=戦いもしないし耕しもしない)理由にしている人たちのつもりで書いております。

しかし、どの電車が珍しいとか古いとか区別している時点で何かしら鉄道そのものに興味を感じているはずだと思うのです。
それで、その人の中に混沌とはしつつも何らかの鉄道に対する魅力が先にあって、撮り鉄や模型鉄はそういった混沌とした何かを形にしていく趣味だと思うのです。

その鉄道趣味の中で特に、冒頭に記したような自分で行動しない鉄道ファンが権威化したに過ぎない骨組みに、その人がハマってしまうこと。
そして、その人の影響でまた同じように自分で行動しない鉄道ファンを生んでしまうことがちょっと勿体なく思うのです。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL





AutoPage最新お知らせ