続々・なぜカトリックはセックス嫌い(以下略
2012/3/29 | 投稿者: ghost
昨日の続き。
「キリスト教プロパーの書いたものは多分参考にならないだろう」と書いたのは、性道徳の話題は、自身が抱いているそれを客観視するのがとても難しいし、宗教モードの人になれば余計にそうなので、論者が無意識に抱え込んでいるセックス観を聖書に投影しただけのものが頻出するだけだろう、というか、実際、数冊そういうのに当たって辟易として嫌気が差していたからなのだが、前掲書『女神−聖と性の人類学』を通じて、ことキリスト教に関してはもっと話がややこしい、ということに気付いたのだった。
話は変わるのだが、これは本当に偶然なのだが、先週末に『MILK』(ガス・ヴァン・サント監督/2008年,アメリカ)という映画を見た。面白いので未見の方にはお勧めなのだが、70年代のアメリカでのゲイの政治運動を描いたドキュメンタリータッチの作品である。何と言うか、ボク個人はゲイに共感しないし、少なからず生理的嫌悪感を覚えることは否定しないが、それでも、ゲイがこの世に存在してはならない、とまでは考えないし、多分、縁があれば友達にだってなれるだろう、と思う。
が、キリスト教文化圏には、ゲイの存在自体が許せないし、そんな奴らを野放しにしたら旧約聖書のソドムとゴモラよろしく、我々全員が神の怒りで滅ぼされてしまうのだ、と信じているひとが、俄かに信じたくない話だが結構たくさんいる。『MILK』は、そういう文化背景の中で、自分たちの権利を守るべく政治運動に身を投じ、実際に市議の議席を得て、そして暗殺されてしまう主人公と、その周辺の人々の物語だ。
で、本題に戻ると、話をややこしくするのは、この際、ゲイでも、ゲイの存在を決して認めない原理主義者でもなくて、もっとも常識的な人(とボクはそう信じたいのだが)すなわち、ゲイはゲイでいいじゃない、というリベラルな人たちが、キリスト教文化圏においてはその根拠までをも聖書に求めようとすることがある、点なのだ。
実際、アメリカではファンダメンタルなキリスト教徒とリベラルなキリスト教徒が、お互いに同じ神を錦の御旗に掲げつつ、明確に対立的な政治党派を形成しているワケで、こうなってくると部外者からは何がキリスト教であるのかさっぱり意味不明になってしまう。キミたちはそんなことして、キミらの奉じる神が喜ぶと本当に思っているのかね?と。思ってるんだろうな…きっと。
似たようなことが女性解放運動、いわゆるフェミニズムにも見られて、フェミニズム神学という言葉があるぐらいだが、実は前掲書『女神−聖と性の人類学』もそういうコンテクストの中にある書籍で、扱われている話題はキリスト教に限らないのだが、キリスト教以外の諸宗教の“女神”表象を辿る動機は、実は、キリスト教文化が内包する(とされる)女性蔑視に対するアンチテーゼ探しだったりする。
こうなると、昨日書いた「少なくともボクだけがそう思っているのではない、ということがわかった」という理解が怪しくなってくる、と言うか、もちろんこの言明は自画自賛的に書いたワケではなく、ここで述べている状況に対する皮肉のつもりだったのだが、つまり、旧新約聖書にエバやマリアを通じて性に対するネガティブな言及がなされているワケではない、という命題は、客観的な事実(聖書を虚心坦懐に読解した結果、女性蔑視はみつかりませんでした)である可能性と同時に、教条的フェミニストによる党派的主張(聖書に女性差別が書かれているべきではないので書かれていないのだ!)である可能性をも考慮に入れないといけなくなってくる。
無論、これは前掲書がそうである、という話ではまったくないのだが、少なくとも、この手の話題についての論考については、常にそういう斜めの視線をもって読まないと、それぞれの党派的主張にやすやすと呑み込まれかねないので、ノンポリシーな読書子としては面倒臭いのである。プロパガンダの人は決して「これはプロパガンダですけども…」と断りを入れたりはしないので。
そんなことを言い出したら、どんな話題だってそうじゃない、と言ってしまえばそれまでだし実際にそうだと思うのだが、特に、どちらの方向へ向うにせよ、人間であれば自分では素直に認め難い本能と直結しているテーマであるがゆえに、純粋に知的好奇心だけで…というのは、ちょっと美化し過ぎとしても…傍目八目を決め込んでいるこちらとしては、ノイズの度が過ぎてちょっとなぁ、な気分にもなるのである。逆に言えば、この分野で学者プロパーやってる人ってのは、タフというか、いい度胸をしてるというか、悪く言えば自分の言いたいことさえ言えれば論敵の主張になんて関心ないんじゃねーの、という気すらしないでもない。
まぁ、そんな感じで特に何か結論があるワケでもないし、どちらかと言うと、カオスであればあるほど、面倒臭さと同時に面白さを感じるひねくれた自分がいるがゆえに宗教が趣味の1つなんだろう、という気もするので、今しばらく思索してみたいと思う。逆説的ではあるけれども、ノイズの多い話題に対しては、短兵急に正解を求めたりせず、ただひたすらにノイズのあるがままに耳を傾けて、その奏でる不協和音の狭間にこそ何かを発見すべきなのかも知れないし。
「キリスト教プロパーの書いたものは多分参考にならないだろう」と書いたのは、性道徳の話題は、自身が抱いているそれを客観視するのがとても難しいし、宗教モードの人になれば余計にそうなので、論者が無意識に抱え込んでいるセックス観を聖書に投影しただけのものが頻出するだけだろう、というか、実際、数冊そういうのに当たって辟易として嫌気が差していたからなのだが、前掲書『女神−聖と性の人類学』を通じて、ことキリスト教に関してはもっと話がややこしい、ということに気付いたのだった。

が、キリスト教文化圏には、ゲイの存在自体が許せないし、そんな奴らを野放しにしたら旧約聖書のソドムとゴモラよろしく、我々全員が神の怒りで滅ぼされてしまうのだ、と信じているひとが、俄かに信じたくない話だが結構たくさんいる。『MILK』は、そういう文化背景の中で、自分たちの権利を守るべく政治運動に身を投じ、実際に市議の議席を得て、そして暗殺されてしまう主人公と、その周辺の人々の物語だ。
で、本題に戻ると、話をややこしくするのは、この際、ゲイでも、ゲイの存在を決して認めない原理主義者でもなくて、もっとも常識的な人(とボクはそう信じたいのだが)すなわち、ゲイはゲイでいいじゃない、というリベラルな人たちが、キリスト教文化圏においてはその根拠までをも聖書に求めようとすることがある、点なのだ。
実際、アメリカではファンダメンタルなキリスト教徒とリベラルなキリスト教徒が、お互いに同じ神を錦の御旗に掲げつつ、明確に対立的な政治党派を形成しているワケで、こうなってくると部外者からは何がキリスト教であるのかさっぱり意味不明になってしまう。キミたちはそんなことして、キミらの奉じる神が喜ぶと本当に思っているのかね?と。思ってるんだろうな…きっと。
似たようなことが女性解放運動、いわゆるフェミニズムにも見られて、フェミニズム神学という言葉があるぐらいだが、実は前掲書『女神−聖と性の人類学』もそういうコンテクストの中にある書籍で、扱われている話題はキリスト教に限らないのだが、キリスト教以外の諸宗教の“女神”表象を辿る動機は、実は、キリスト教文化が内包する(とされる)女性蔑視に対するアンチテーゼ探しだったりする。
こうなると、昨日書いた「少なくともボクだけがそう思っているのではない、ということがわかった」という理解が怪しくなってくる、と言うか、もちろんこの言明は自画自賛的に書いたワケではなく、ここで述べている状況に対する皮肉のつもりだったのだが、つまり、旧新約聖書にエバやマリアを通じて性に対するネガティブな言及がなされているワケではない、という命題は、客観的な事実(聖書を虚心坦懐に読解した結果、女性蔑視はみつかりませんでした)である可能性と同時に、教条的フェミニストによる党派的主張(聖書に女性差別が書かれているべきではないので書かれていないのだ!)である可能性をも考慮に入れないといけなくなってくる。
無論、これは前掲書がそうである、という話ではまったくないのだが、少なくとも、この手の話題についての論考については、常にそういう斜めの視線をもって読まないと、それぞれの党派的主張にやすやすと呑み込まれかねないので、ノンポリシーな読書子としては面倒臭いのである。プロパガンダの人は決して「これはプロパガンダですけども…」と断りを入れたりはしないので。
そんなことを言い出したら、どんな話題だってそうじゃない、と言ってしまえばそれまでだし実際にそうだと思うのだが、特に、どちらの方向へ向うにせよ、人間であれば自分では素直に認め難い本能と直結しているテーマであるがゆえに、純粋に知的好奇心だけで…というのは、ちょっと美化し過ぎとしても…傍目八目を決め込んでいるこちらとしては、ノイズの度が過ぎてちょっとなぁ、な気分にもなるのである。逆に言えば、この分野で学者プロパーやってる人ってのは、タフというか、いい度胸をしてるというか、悪く言えば自分の言いたいことさえ言えれば論敵の主張になんて関心ないんじゃねーの、という気すらしないでもない。
まぁ、そんな感じで特に何か結論があるワケでもないし、どちらかと言うと、カオスであればあるほど、面倒臭さと同時に面白さを感じるひねくれた自分がいるがゆえに宗教が趣味の1つなんだろう、という気もするので、今しばらく思索してみたいと思う。逆説的ではあるけれども、ノイズの多い話題に対しては、短兵急に正解を求めたりせず、ただひたすらにノイズのあるがままに耳を傾けて、その奏でる不協和音の狭間にこそ何かを発見すべきなのかも知れないし。
2012/4/2 0:17
投稿者:45-50s
2012/4/1 11:22
投稿者:ghost
> その教義を受け入れるキリスト教徒も自ずから"セックス嫌い"なのだ
通俗的な理解としてはそれでいいんだと思いますが、たとえばそれは「ゲイは妊娠の心配がないからセックス狂に違いない」というような見解に通底した短絡を感じます。
以下、貴兄の書いてくださったことは、基本的にその通りのことがおこった話なんですけれども、それらは結果としてそうなった話であって、第一原因ではない、というのがボクの現時点での理解です。
加えて、無個性な集団として対象を捉えれば確かにその通りなんですが、実際には、それは個性的な我々と同じ人間がそれぞれに個性的な判断を積み重ねた結果として生じた傾向なのであって、現実に個々の人間がどう考えてどう決断しどう振舞ったのか、また、それを受けて他ならぬ我々自身はどう考えどう決断しどのように振舞うべきか、という視点を欠くように思いました。
大袈裟な言い方をすれば、第一原因はすべからく一人ひとりの何気ない言動に帰するのであって、抽象化された宗教や習俗やイデオロギーはそれらが積み重ねられた結果を追認しているに過ぎません。まぁ、これは事実、というよりはボク個人の世界観ですけれども。
一方で、一般的には「あの人は〜主義だからこうである(はずだ)」という無根拠な断言がまかりがちなのであって、そうならないための思考訓練としてこういう無駄なことを考えているのかも知れないです。
原理的に決して正解に辿り着ける話題でもないし、その必要もないのですが、たまに自身の書きまとめたものに対して貴兄のようなクレバーな人が何か言ってくれると、思索の再整理が出来てありがたく思います。お暇ならまた突っ込んでください。
通俗的な理解としてはそれでいいんだと思いますが、たとえばそれは「ゲイは妊娠の心配がないからセックス狂に違いない」というような見解に通底した短絡を感じます。
以下、貴兄の書いてくださったことは、基本的にその通りのことがおこった話なんですけれども、それらは結果としてそうなった話であって、第一原因ではない、というのがボクの現時点での理解です。
加えて、無個性な集団として対象を捉えれば確かにその通りなんですが、実際には、それは個性的な我々と同じ人間がそれぞれに個性的な判断を積み重ねた結果として生じた傾向なのであって、現実に個々の人間がどう考えてどう決断しどう振舞ったのか、また、それを受けて他ならぬ我々自身はどう考えどう決断しどのように振舞うべきか、という視点を欠くように思いました。
大袈裟な言い方をすれば、第一原因はすべからく一人ひとりの何気ない言動に帰するのであって、抽象化された宗教や習俗やイデオロギーはそれらが積み重ねられた結果を追認しているに過ぎません。まぁ、これは事実、というよりはボク個人の世界観ですけれども。
一方で、一般的には「あの人は〜主義だからこうである(はずだ)」という無根拠な断言がまかりがちなのであって、そうならないための思考訓練としてこういう無駄なことを考えているのかも知れないです。
原理的に決して正解に辿り着ける話題でもないし、その必要もないのですが、たまに自身の書きまとめたものに対して貴兄のようなクレバーな人が何か言ってくれると、思索の再整理が出来てありがたく思います。お暇ならまた突っ込んでください。
2012/3/31 18:34
投稿者:45-50s
最初の記事から通読しました。相変わらず無知あふるる(?)感想というか、何も裏を取ってないオカルト本的妄想で申し訳ないのですけど。
キリスト教の処女懐胎は、その概念自体が処女性を神聖視しているので、その教義を受け入れるキリスト教徒も自ずから"セックス嫌い"なのだ、ということはできませんか?
イエスの神性は「神の子を身ごもった」=「セックスをせずに妊娠した」ことに根拠があるはずです。その場合、本来必要なのは「処女であること」ではなく、仮に先にヨセフとの間に子を産んでいたとしても、その後で「イエスを産むまで一度もしていないこと」であるはずです。
しかしキリスト教は処女懐胎を教義としています。
このように、処女懐胎がイエスの神性の必要十分条件でないにも関わらず、教義の根幹を成しているということは、キリスト教徒は少なくとも初期において、処女信仰をすんなり許容できる人たちだった可能性が高いということになります。
また後世のキリスト教徒にしてみれば、男系の権力社会において、家系同士の財産の交換や譲渡の契約ツールとしても利用される女性(書いてて嫌な言い回しですが)をして、みだりにセックスだの交際だのさせたくない、混乱した交際で無用な衝突を引き起こしたくない。こういうインセンティブはあったはずです。
そうはいってもそんな本人たちも性欲ある男なので、どうにか自律するために宗教の教義としての処女信仰からセックス否定を演繹し、社会一般に押し付けようとしたのではないでしょうか。
もちろんこういう事情は貧しく権力を持たない民衆には無関係なことです。だから性倫理にかかわる権力者や教会側との諍いも起こったのでしょうし、説得力のない教義を原理主義的に呑み込もうとするあまりカルト化したり異端扱いされる例もあったでしょう…いや、そこまで言うといくらなんでも妄想が過ぎますね。
ともあれ、その民衆にも、時代が下って豊かで権利ある市民が増えるにつれてこのインセンティブがうっすらと広まっていき、今や処女信仰を下支えにしたセックス否定が強固な価値観となって共有されるようになったのではないでしょうか。
長々書いちゃいましたが、「俺様の妄想を裏とって批評しる!」という意図ではなくて、自分の蒙昧な妄想でも、何かしらghostさんの思索のトリガになればいいな、と思って書きました、一応。
キリスト教の処女懐胎は、その概念自体が処女性を神聖視しているので、その教義を受け入れるキリスト教徒も自ずから"セックス嫌い"なのだ、ということはできませんか?
イエスの神性は「神の子を身ごもった」=「セックスをせずに妊娠した」ことに根拠があるはずです。その場合、本来必要なのは「処女であること」ではなく、仮に先にヨセフとの間に子を産んでいたとしても、その後で「イエスを産むまで一度もしていないこと」であるはずです。
しかしキリスト教は処女懐胎を教義としています。
このように、処女懐胎がイエスの神性の必要十分条件でないにも関わらず、教義の根幹を成しているということは、キリスト教徒は少なくとも初期において、処女信仰をすんなり許容できる人たちだった可能性が高いということになります。
また後世のキリスト教徒にしてみれば、男系の権力社会において、家系同士の財産の交換や譲渡の契約ツールとしても利用される女性(書いてて嫌な言い回しですが)をして、みだりにセックスだの交際だのさせたくない、混乱した交際で無用な衝突を引き起こしたくない。こういうインセンティブはあったはずです。
そうはいってもそんな本人たちも性欲ある男なので、どうにか自律するために宗教の教義としての処女信仰からセックス否定を演繹し、社会一般に押し付けようとしたのではないでしょうか。
もちろんこういう事情は貧しく権力を持たない民衆には無関係なことです。だから性倫理にかかわる権力者や教会側との諍いも起こったのでしょうし、説得力のない教義を原理主義的に呑み込もうとするあまりカルト化したり異端扱いされる例もあったでしょう…いや、そこまで言うといくらなんでも妄想が過ぎますね。
ともあれ、その民衆にも、時代が下って豊かで権利ある市民が増えるにつれてこのインセンティブがうっすらと広まっていき、今や処女信仰を下支えにしたセックス否定が強固な価値観となって共有されるようになったのではないでしょうか。
長々書いちゃいましたが、「俺様の妄想を裏とって批評しる!」という意図ではなくて、自分の蒙昧な妄想でも、何かしらghostさんの思索のトリガになればいいな、と思って書きました、一応。
自分も、先に書いた妄想が仮に正しかったとしても、部分的な答えにしかなっていないと思います。
処女懐胎→セックス嫌い、にはやはり飛躍があるので、この矢印を違和感なく受け入れる素地は教徒各々の中にあったはずですが、それが何なのかは、自分は想像できてません。
> 抽象化された宗教や習俗やイデオロギーはそれらが積み重ねられた結果を追認しているに過ぎません
個人的に同意します。
先の妄想も、発生段階では処女信仰があったかもしれないが、後世ではむしろ社会的な利害から処女信仰への追認が進んだに過ぎない(ただし民衆と上流階級で異なるスピードで)、というニュアンスで書いたつもりです。
個別には例えば、貴族の間で「お前うちの娘に手出しやがったな!キリストの教えに反するぞ」「お前だってセックスするだろ!ばーかばーか」「くそ、黙っててやるからもう手を出すなよ、だからお前も黙ってろ」みたいな消極的にセックス否定を受け入れるやり取りがあった、のかもしれません。利害は戦略的な言動だけでなく、何気ない言動にも必ず影響を与えると思います。
まあどのみち妄想ですけどw