2006/9/28

バイバイン  

ドラえもんのヒミツ道具に「バイバイン」というものがある。

ある日、おやつに栗まんじゅうが出たのび太は最後の1個を非常に惜しんだ。
「これを食べたら無くなってしまうのか…あぁ勿体無い」
見かねたドラえもんがなんでも倍に増えていく「バイバイン」を出し栗まんじゅうに1滴たらした。
一定時間経つと1個が2個、4個に。
「常に1個残せばずぅっと食べられる」と喜んだのび太だったがお腹が一杯になってしまう。
増え続ける栗まんじゅう。
色んな人に食べさせるも必ず1個残ってしまい、とうとう押入れに隠してしまった。
「食べた」と嘘を付きつつさりげなくドラえもんに残したらどうなるか聞いてビビってしまい自白。
既に押入れ一杯になった栗まんじゅう。
風呂敷に包んで小型ロケットで宇宙へ栗まんじゅうを飛ばした。


最近、活動しながら思うことは
必ずライブ会場には「自分も歌っています」という出演する立場の人達が多い事。
別に今に始まった訳ではない。
俺がステージデビューした2001年からそうであった。
その前からもそうなのだろう。

俺は「遠藤ミチロウ」というアーティストが大好きで
上京して漫画を描いていた頃、20代の後半は「遠藤ミチロウ」を追いかけ続けた。
今も使っているヤマハの黒いエレアコもミチロウの黒いアリアのギターに憧れただけで買った。
つまり自分も最初は「遠藤ミチロウの客」であった。

憧れの対象は異なるが皆、誰かしらの影響を受けている。
また
対象の人物も誰かしらの影響を受けている訳だ。

辿っていけば「一人のスター」から影響され派生して行くのだと思う。
バイバインでもふりかけたように増えて行く。

これはどの世界でも同じことな訳で
お芝居だろうがお笑いだろうがプロレスだろうが漫画だろうが
其々の速度でユックリと細分化されている。

「隣のおねぇさん」ならぬ「隣の表現者」

栗まんじゅうのように「飽和状態」になるのか?
宇宙に葬り去らなくてはならないのか?



「1億総表現者」でも良いのかも知れない。

何故なら「生きる」事が表現なのだし。

俺は「対世間」を掲げながら活動してきた。
もしかしたら向けるべきは「対世間」ではなく「対表現者」なのかも知れない…。
0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ