2018/11/12

1955年の句会吟  川柳

「ふらすこてんは10年で解散」の10年が昨日の句会で終わった。
2,3の方から、あとどこへ行くの?、最寄りの句会は?とたずねていただいた。
あるいは握手を交わすなど、さすがに筒井祥文さんとの握手で、言葉より涙が先行しそうで困った。爺はだらしがないのが相場だと思うものの、「相場」という語自体がもう通用しないなあと思った。
無ければ行かないのが句会。淋しさなど無いが、川柳という文芸の特性に句会の存在が不可欠だった歴史からすれば、雑詠でキバレと川柳に言われそうだ。
この爺の性分からすれば、当面のところ何処へも行かないだろうと見て下さる三人の女流と酒杯を交わしつつ、その三人の句風を知るところから親しく放談、川上三太郎の「十和田せんちめんたる」4句、「おそれざんぴんく」8句などの、いわば三太郎の川柳が辿り着いた地点の話などをした。

三人には三太郎の到達点(であると柊馬が思って居る12句のコピーを送るつもりだが
川柳誌のヤマかき分けて探す真っ最中の現在。
いま、それより古い1955年の、川柳研究社の句会報に、冨二・芳味・哲郎の名を発見

  過ぎし罪科鋭角にありピアノ搏つ  芳味

  病室の鏡に神が素通りする     冨山人(冨二の旧号」

  農夫死す豊年太鼓打ちながら    哲郎

達者と言えば達者だったのだろうが、現代川柳史の一方では雑詠主導の志向が盛り上がりかけていたころだったと聞く。



5

2018/9/28

東山魁夷展  川柳

半世紀以前の工員と今の工員では、労働が精神に及ぼす負荷の質が異なっていて過酷だと報じられている。

かつて、少ない休日を待ちかねて美術館とジャズ喫茶で労働現場のウサを晴らし、あるいは、神経のささくれを癒したことを「東山魁夷」展で思い出していた。

若いころから美術展は疲れるところだった。
気に入ったそれは疲れが増して神経が上ずったが、日々の労働の中で自分だけが違う空気にあるようで、なにやら誇らしかった。
職場の皆さんからは、変な奴だと見られていたことだろう。


数十年前のビュッフェ、ミロ、半世紀以上も昔の大規模なゴッホ展、それぞれ見終わったときの深呼吸が思い出された。
尤も今回は爺になっての全身的なシンドさが疲れの上乗せに在って、疲れのここちよさとは言えず、ちょっと堪えた。

だが東山魁夷、よかった。

あと一ミリで抽象になることを心得て居て、自己の絵を描いたとでも言えばいいか・・・。
久しぶりに美術館で興奮している自分を感じていた。



2

2018/9/17

埒(らち)について  川柳

河野春三は、自作の川柳と時勢との関わり合い、あるいは関係性についての厳しさを示すことがあった。
『河野春三川柳集』から引いてみる


昭和23年〜24年

  陋巷の落暉に虚無の貌がある
  水栓のもるる枯野を故郷とす
  わが胸のジキルとハイド今日も無事

昭和25年〜26年

  寒夜覚めて履歴書しかと机の上
  短日の壁に浮浪は女陰彫る
  永いスランプ――しゃつの裏を着ていた

昭和30年

  炎天やわれら亡びず十年経たり
  プラカード倒るピエロは下敷きに
  今も眼底に ブランコの不逞垂る

昭和31〜37年

  母系につながる一本の高い細い桐の木
  炎天の その身をうずむ  父の椅子
  死蝶 私を降りてゆく 無限階段の繩
  救いなき傷 流木にある戦禍
  基地の一本もない老婆の歯をかえせ

ご覧のように、春三は川柳に在る遊興性に対して一線を隔していた。
川柳という文芸への関わり合いが、誰にも消費行為として在ろうとも、自身の発語、作句が何時頃に在ったかを示しておこうとしていた。

戦後の10年であれば、その時節の固有性が川柳に在ったとする川柳観を春三は抱いていたのだ。
後の時代から見れば、これらの川柳に在る発語の大方が川柳固有のものであるとは言い難いが、少なくとも、遊興性から離れた位相の発語がこのように在った。

戦後10年を経た同時期の川柳界で「彼女が私に句を見てくれ――と言ってきたのは昭和三十年頃であった。(中略)川柳と言えばその九十九パーセントが男性の手に成っている当時(後略)」と句集『新子』の序文に川上三太郎が書いている。
三太郎は、三太郎なりの、時節と川柳の関わり合いを発語として活字にしていたのであり、其処に、春三とは別の位置ではあったが、時勢と川柳との関わり合いを黙過していてはならないとする認識、つまりこの時勢のなかで川柳が川柳であるところの埒を広げるだろう、との観測があっただろう。
実際、新子を渦の芯にする私川柳は、その後、川柳という文芸の埒を押し広げたのであり、此れを最も強力に推奨すると共に自身も私川柳を書くことをもって埒の拡張に参加していったのが春三であった。
やや極論になるが、近、現代の川柳史の中で、川柳の埒を最も広げたのが「川柳に私の思いを書きましょう」のキャッチフレーズと其の膨張であった。




2

2018/9/8

冨二(4) 大きな曲がり角が在った  川柳

  つらら墜つ刹那もひかる飢餓の錐   小宮山雅登

  ボクの行く手にゴム手袋がびっしり  奥室数市

1959(昭和34年)「現代川柳」(現代川柳作家連盟発行)18、19号に在る。
連盟の機関誌で、加盟者の近作を牽く中の二句だと思われる。

そっと捲らねば破れる紙質の悪さと古さの中で出会った、半世紀を越す過去の川柳に在る、比喩とイメージ。
当時の革新的な川柳人の神経の働きが、「錐」「ゴム手袋」を曳き出しており、リアリティーに立つ作句で在ったことが見えるとともに、更に遠い戦後期の、いわゆる革新派の心性と川柳界の川柳観との違いを感得させる。
川柳という遊興性、それを否んだ革新派という史観は、理解し易くて、とりわけ両者の懸隔が最も広がっていた時節であったのだが、その両者の反発や無視を理解しながら、超然と行き来して、二年後に中村冨二は高名な『中村冨二句集』(刊行 山村祐、編集、松本芳味)を出して居る。
尤も、よき柳友たちに奨められて冨二が腰を上げた、との評判があり、冨二は、川柳一句の、いわば耐用年数、ライフサイクルの短さを能く認識していた感が在った。
掲出の二句の作者に、この辺りについての意識が在ったか、などを言うことは無聊でしかないが、近、現代川柳史というスパンに置いて見れば、この二句の主意を云々するより、二句の作句法が、川柳史的な転換期の質を孕んでいたと、見える。
川柳界と革新派と、両者に畏敬されていた冨二(同様の数人が在った)、それ等全部をひっくるめた川柳の曲がり角が見える。

2

2018/8/26

冨二(3)  川柳

ふと気付いたこと。

テレビの美術番組を見ていて、冨二の川柳は恣意的に、あるいは無意識でコラージュをやっていた、と思った。
そして近頃の川柳の状況が、みなさん、やっと、コラージュに達して、元気、元気。
だと思った。

冨二は1960年に出した句集の序で

「川柳という名に残されたモノは、技術だけである。という考え方は、当分変わりそうもない。」と書いて、多くの川柳人に????首を傾げさせた。

いま、コラージュ全盛の時期に至って、「残されたモノ」が、川柳の作句に日常化している感が在る。

尤も、冨二は、自分の句集を「『冨二が現在生きていることの、尻尾の様なモノだ』と、お考えくだされば倖せである」とも書いている。

冨二と云う山、その存在に登ってみる季節が来ていると感じられる。
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