2019/4/11

イチロー不在  川柳

いわゆる【川柳性】の機能不全があきらかで、書いているボクチャンの存在を認めて欲しいだけなの、と感じられる句に出会うことが急増している。

いわゆる私川柳のブームから半世紀が過ぎている。
似たような心性、いわば<さもしさ>こそが新しい川柳人の蝟集をつくることを思えば、居眠っていられない。

個我と云っても存在感の薄さ、私性をネタにして―――結果、レトリックの比べ合いになったのが私川柳だった。

「ボクチャン淋しい」の心性こそ現代川柳の成る樹なのだ。
川柳的なレトリックの芒洋とした、しかし、体内から何かを引き出すチカラを、比べ合いにまで引き込む人は居ないかなあ。

イチローが引いて、いまこそチャンス?―――などと思うのだが。
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2019/3/8

祥文の陰りのない発語  川柳

「着なれないものを着よって、しゃっちょこばって並んだ何十の親分の顔より、俺は、あのお母が豚松化けて出て来い言うたときの、くしゃくしゃの顔のほうが泣けたわい。(声を高くして)お前らこそ何であんな顔して泣けへんのや。しょうもない見栄はってきたさかい、泣かれへんのや。お前らのそんな見栄より、あの子が、末は夫婦(みょうと)と契った豚松さんの晴の日や思うて、二年経った今日の法事に丸髷結うてみせた、あの見栄のほうが……いや、これは見栄やない、真実や……いじらしいやないか。俺は身につまされた(と鼻をすすり)声を途切らせ)……」(以下省略)―−見受山鎌太郎(志村喬)。

上記のセリフが、映画『次郎長三国志』の第八部 『海道一の暴れん坊』に在ると『マキノ雅弘 映画という祭り』(山根貞雄 新潮選書)が伝えている。

今日、3月8日。筒井祥文さんの葬を終えて帰宅。
感情と感傷から離れるべく前掲書を拾い読み。そこで、上記の志村喬の関西弁の名セリフに「あっ」と声を上げかけた。

声をあげそうになったのは、祥文の川柳の語調の澄明さ、一句の、隅から隅まで、ライトが影をつくっていない仕上げっぷり――晴朗さが、マキノ雅弘の『次郎長三国志』の空気の澄明さにあるのだと気付いたからである。
本人も、其れが名作映画にあるとは知らなかっただろう。
無論、高校の部活でオチケンに在って以来の、作品の見せ方に秀でていればこそだが、そういえば立ち話であっても日常会話が明解、発語に陰りが無かった。
この辺り、祥文の川柳の独自のメリハリ――――だったのだ。
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2019/2/21

川柳この軟体性  川柳

前句附けを先祖とする川柳で、主に穿ちが競い合われて、近・現代川柳にまで繫がった。
その渦中で「私の思いを書こう」とする近代的な意識が広まって、戦後の時節十年間に社会性川柳が台頭、その後、1970年代にまで及んだ。
或いは、戦後の十年間を経た時節に「私の思いを書こう」とする私川柳が台頭して大流行期が出現、およそ世紀の転換前後にまで続いた(いや、90年代に衰退したとか、世紀が代わってからも書きつづけられた、などの見方があるのだが―――。

「私の思いを書きましょう」とする近代的な意識と認識が、川柳性を揺るがすかに感じられた時節などを意識しながら、かつての句を読み返せば、社会性川柳も私川柳も、その大凡の書き方に、川柳性が機能していたのであり、とりわけ私川柳では、暗喩、イメージ、フィクションの実作法に、川柳性の濃厚な働きが在ったことが判る。

史的に見れば川柳性を活かしつつ川柳が、その幅を広げた―――のであったが、質的な深化や上昇があったとは云えそうにない。

少々のことでは揺るがない軟体性が川柳という文芸に在るのだが、この辺を気にせずに書かれる面白みの薄い句が其処此処で書かれている現状が見えていて、この辺りに、今日的な幅の広がりについての期待があるのだが、江戸時代から一句の存在期間が極めて僅かであるのが川柳でもあるのだろう、取り上げられて議論される間もなく―――の状態。
尤も、振り返れば長命な川柳も在るのだが、なにやら、諺化して市中に在り続けるのが実状だ。

先日、「つづきの会(人数限定の勉強会)」で、題詠と川柳性の繋がり方の分析を試みた。
無論、個々人の実作の上で活かされれば、という内側向きの視線の強引な強化法としてのことだが、句会吟の書き方で様々な、言葉、単語、美意識、飛躍、意味、イメージ、暗喩、などの、所在を、会員の句会吟(凡そ30句程)を借りて分ける作業を実施した。まあ、常には立ち止まらない川柳性の働き具合についての意識化に過ぎないのだが、一句の主意や思いについての読みから離れる小さな実験―−だった。



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2018/11/12

1955年の句会吟  川柳

「ふらすこてんは10年で解散」の10年が昨日の句会で終わった。
2,3の方から、あとどこへ行くの?、最寄りの句会は?とたずねていただいた。
あるいは握手を交わすなど、さすがに筒井祥文さんとの握手で、言葉より涙が先行しそうで困った。爺はだらしがないのが相場だと思うものの、「相場」という語自体がもう通用しないなあと思った。
無ければ行かないのが句会。淋しさなど無いが、川柳という文芸の特性に句会の存在が不可欠だった歴史からすれば、雑詠でキバレと川柳に言われそうだ。
この爺の性分からすれば、当面のところ何処へも行かないだろうと見て下さる三人の女流と酒杯を交わしつつ、その三人の句風を知るところから親しく放談、川上三太郎の「十和田せんちめんたる」4句、「おそれざんぴんく」8句などの、いわば三太郎の川柳が辿り着いた地点の話などをした。

三人には三太郎の到達点(であると柊馬が思って居る12句のコピーを送るつもりだが
川柳誌のヤマかき分けて探す真っ最中の現在。
いま、それより古い1955年の、川柳研究社の句会報に、冨二・芳味・哲郎の名を発見

  過ぎし罪科鋭角にありピアノ搏つ  芳味

  病室の鏡に神が素通りする     冨山人(冨二の旧号」

  農夫死す豊年太鼓打ちながら    哲郎

達者と言えば達者だったのだろうが、現代川柳史の一方では雑詠主導の志向が盛り上がりかけていたころだったと聞く。



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2018/9/28

東山魁夷展  川柳

半世紀以前の工員と今の工員では、労働が精神に及ぼす負荷の質が異なっていて過酷だと報じられている。

かつて、少ない休日を待ちかねて美術館とジャズ喫茶で労働現場のウサを晴らし、あるいは、神経のささくれを癒したことを「東山魁夷」展で思い出していた。

若いころから美術展は疲れるところだった。
気に入ったそれは疲れが増して神経が上ずったが、日々の労働の中で自分だけが違う空気にあるようで、なにやら誇らしかった。
職場の皆さんからは、変な奴だと見られていたことだろう。


数十年前のビュッフェ、ミロ、半世紀以上も昔の大規模なゴッホ展、それぞれ見終わったときの深呼吸が思い出された。
尤も今回は爺になっての全身的なシンドさが疲れの上乗せに在って、疲れのここちよさとは言えず、ちょっと堪えた。

だが東山魁夷、よかった。

あと一ミリで抽象になることを心得て居て、自己の絵を描いたとでも言えばいいか・・・。
久しぶりに美術館で興奮している自分を感じていた。



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