12月10日、栗駒駅前のスーパー兼土産物屋の栗駒屋から岩ヶ崎小学校の前へと向かう途中、期せずして忠魂碑に出くわした。

「吊忠魂之碑」。吊は「とむらう」の意。
そらぁ予期しませんよ、まさか
民家の庭の隅に忠魂碑が立ってるなんて。
忠魂碑は言うまでも無く「公」のものだ。以前、F-3さんに「忠魂碑は国家祭祀の地方拠点とムラ社会の民俗的な祭祀拠点の両義的な性格を持つもの」とご教授いただいたが、どちらにせよ個人が私的に自宅へ建てるものではあるまい。
その家は神社を思わせる立派な門を構えていたし、庭はちょっとした日本庭園だったし、敷地内には蔵や離れも建っているので、ひとかどの人物の住まいとみえたが、それでも民家以外の何物でもない。門をくぐってアプローチを進んで玄関まで行き、チャイムのボタンを押すことに、いささかの気まずさは感じても恐怖は抱かない、そういう程度に常識的な民家だ。
初めは道路から撮影だけしてその場を後にしたが、どうにも気がかりなので、館山公園から下りてきた後に寄ってみた。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。……お留守のようだ。いやぁ、縁の無い場所もあるものだ、と駅まで引き返す。だが、やっぱり気になって仕方がない。なので上り列車を一本見送り、ちょっと栗駒の町をぶらついて(時間つぶしでちょっとぶらつくのに隣駅まで行ってしまう私)、改めて訪ねてみる。すると間がいいことに、家の方がちょうど帰ってきたところだった。
玄関先にいらしたご婦人に、たまたま通りがかったところ忠魂碑が目に入りました、撮影させていただきたいのですが、と来意を告げると、快く承諾してくれたばかりか、由来も教えてくれた。
――元々は保育園の角のところに立っていたが、館山公園に立派な慰霊塔が建つことになり(そちらに合祀されるためだろう)、この忠魂碑は撤去されることになった。ところが撤去といっても、ただ倒されただけでその場に横倒しのまま放置されてしまっていた。近くに飲食店街があり、酔客の粗相に汚されることさえあった。それをご主人、「自分も戦場に出たが運良く帰ってこれた、戦死者が無下に扱われるのは見るにたえない」と引き取ることにした。そのときはお寺に引き取ってもらうつもりでいたが、檀家に反対されたとかでお寺には断られてしまう。そこで思い切って自宅に立てることにした――
……思いがけず美談に出会ってしまった。これで「民家に忠魂碑」の謎は解決である。しかし、そもそもその場に放置するくらいなら倒さなくてもいいのに、とか、ひょっとしてGHQの撤去命令絡みか、とか、戦没者慰霊塔が建ったのはいつなんだろう、とか、そしてその慰霊塔はどこにいったのだろう、とか、謎がかえって増えてもいる。
許可を得て撮影。建設年などは確認できなかったが、「陸軍歩兵少佐従六位勲功五等四叙 島田繁書」とあり、おそらく日露戦争の頃のものだろう。
撮影をご快諾くださったAさんに改めて感謝いたします。

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