え〜っと,「変態」じゃなくて,正式名称は何ていうのだったか....そうそう,「世界の創作メダカ展覧会」.あれから一年が過ぎた.この一年間,おいしいコーヒーを何杯もいただいた.
あの時,コアな人達の捨て身の献身と,多くの人たちの小さな協力を集めて,孔雀色の小魚のための宝石のような時間がそこにあった.もちろん,そのコアな人達のお力こそがこれを成功させた原動力だったわけだが,これを大きな成功に導いたプラットホームが「いんたーねっつ」による人と人との繋がりであることは間違いない.
もちろん,gupに関わりのある人々の間で,いんたーねっつ上のトラブルは後を絶たない.ただし,いんたーねっつの世界が「軽さ」というある種の特性を有することはきわめて重要であり,それは良くも悪くも大きく機能するのである.どんな人でも気軽に意見を発し,広くいろいろな人達との間で自由闊達な意見交換ができる.その一方で,情報発信前にウラを取るとか審査するとかないので,嘘やデマを流したり,脳内世界のことをさも現実にあったかのように表現したり,自分の事を棚に上げて他所の事を偉そうに論評したり,中途半端な匿名性の下で顔が見えない気軽さから罵詈雑言を並べたてて誹謗中傷に走ったりもできる.つまりは表裏一体なのであり,この「軽さ」を否定したら,息苦しくて,いんたーねっつの世界では遊べなくなってしまうのである.
まぁわしの職業柄もあって,人はいんたーねっつで何を言わんとするのか?ということについては,なんとなく関心を持っている.わし的には,いんたーねっつの世界に浸るなら,もちろん誠意をもってお互いに気持を持ち寄るけれども,相手の間違いや嘘に寛容である,共感して大きな期待を持っても決して熱狂しない,気持ちの距離を保ってまったりと付き合う,等々に留意すべきだと考えている.よく「ネチケットを守れ」と言われるが,「『ネチケットを守らない人を許す』のもネチケットのひとつだ」というのがわしの持論である.そのうえで,いんたーねっつ上で発信したいことを書きならべる.相手は不特定多数,もちろん誰も見ないかもしれないけど,誰が見てもさし障りの無いように表現する.そして「いんたーねっつでやろうとしていたコト」を成し遂げるのである.
わしが苦手なことがいくつかある:.
ひとつは謎かけとか,ほのめかしてわざと明言しないこと.「この遺伝子はアレから来ているのだが,アレって,わかるかな〜」とか「わかるひとにはわかる」とかいう書き方だ.情報発信するなら,まず手の内は披露して,それから意見交換だろう.わしがgup業界のカリスマ=故・筒井良樹さんの実績を高く評価していた一方で,ライターとしての文章はあまり好きではなかったのは,この「わざと書かない」ことが散見されるためであった.もともとナゾナゾとか好きじゃないしな.
もうひとつは,ごく限られた親しい相手とだけ意見交換する目的なのに,その内容をいんたーねっつで広く知らしめることだ.メールですむでしょ?もちろん,いんたーねっつ上で懇意にしていてもリアルの相手のことは何も知らないので,BLOGの中でしかお話しできない,というのはある.また,親しい友達とのやり取りに第三者にも入ってもらって議論を盛り上げる,というのはたいへん有意義なやり取りである.ここBLOG talkでも,コメントをいただいたらちょっとつっこんだ話も入れて,他の人にも見てもらって,できたら別の意見をいただきたいなぁ,という場面がよくある.しかし,どう考えてもこれは一対一の業務連絡でしょ?というのをブログとか掲示板で行ったり来たりしてるのを見ると「何なんだろう?」と大いなる疑問を持ってしまう.まぁ見せたいんだろうけどな.それもまた人間的なことなのだろう.
また,批判的な記述をするときに何をどう批判しているか不明瞭にするやり方も好まない.そんな文章を読むと,意味わかんないのに気分だけ悪くなる.あからさまに書くのはプレッシャーなのだろうか?明言しないなら書かなくてもよさそうなものだが,まぁ愚痴ってのはそんなもんだろうし,ある意味では「微笑ましい」とも言えるだろう.
何しろいんたーねっつなので,いろいろとたいへんなことはあるだろうが,その有用性に疑いはない.繰り返しになるが「筒井さんを囲んだ愉快な仲間たち」だけの集まりでは変態イベントはあれほどまでの素晴らしいものにはならなかったかもしれない.SNSの絆があってこそ,そしてまた,あのトラブルやそんな事件さえも「ピリッと効いたスパイス」としてイベントの糧になっていたのだと思う.そう思うと,世の中,けっこう面白いものである.

1